昭和45年3月27日 朝御理解
御理解第94節
「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」
大変難しい御理解ですね。もう本当に難しい。えー、根本の所を誤ると、おー、本当に大変な事になる御理解です、ね。「信者に不同の扱いをすな」と。まぁ、えーまぁ、一視同仁という事。ね。みんな神様の氏子としての取り扱い。または、えーお参りをする。お参りをしてくる、例えば御信者に、お供えをようされる方もありゃ、お供えをしない方もある。毎日お参りをして来ても、それがあー、相当の立派な財産家でありながら、ただお賽銭だけで、毎日参ってくる人もある。ここにもあるんです。そんな人がやっぱ。かというと、本当に人間心を使うたら、あなたそう、そうまでしなさらんでもいいですよと言いたい様な人もある。
「信心の篤いのが真の信者じゃ」信心の篤いのが真の信者とは、どういう事をもって信心が篤いという事になるのか。これもまた、大変難しい事である。尺度が無いから分からん。いかに日参り、夜参りしておるからというて、その人がその真の信者とは限らない場合もある。本当にこれはですね。もうー目に見えない所の事ですから、実に難しい。まぁ、ところで私の例をとると、えー、誰々さんがお参りしてみえましたと。あぁ、そんなら応接間に通しなさいという人もある。ね。誰々さんが参ってみえました休んどったら、ならここへ私の、ね、枕元へ来てもらいなさいという人もある。ね。雲泥の違い、差ですね。片一方の方は誰々さんがどうとか言うたら、きちっと羽織袴をつけて、応接間に待たせておいて、応接間で会おうという人もあるかと思うと、寝床に、私が寝ておる所に来てもろうてというような場合もある。お供えをしたいと言う。ね。もうそうなさらんでも良いですよ。と。いや、したい。そんなら一つして下さい。
えー、まぁ、先日もここの今私の座布団をお供えなさった方が、この座布団は一万五千円かかっとる。ところがちょっとばかり、私が大きいからはみ出る。はぁ、自分の思いが足りなかったと、まぁ、気付かれたかどうかは知らんが、この大祭前に今度はあのー、ここの御信者さんのむつやさんにお願いして、まぁ、二万円も三万円もかかっても良いから、こんな広いきれは無いからいよいよ織り元に、おり、おら、おりにやる最高の座布団生地を織りにやって、大祭前にお供えしたいと。私としてはもうそんなに必要が無い。幾らも頂いているので、ね。ですけれどもお供えしたいと言われますから、あぁ、そうですかと言うて、まぁ、お受けした。
先日、自分でむつやさんに行かれて頼んでこられたという事です。ね。私はそういうのはいわば、形の上においては非常に大切にする。さぁ、お茶も最高のお茶を用意し、えー、お昼時になったら、何か一つ、みつくろうてわざわざ作らせてからでも、お昼を作らせる。えー、いかにも、こうなる程。そしてお供えが出来るから、ね。大切な、に、まぁ、しておる様に見える。けども、この人は、まぁだ信心は無いのです。だからお供えなっとさせなきゃ、おかげを頂ける道は無いのです。実を言うたら。ね。はぁ、有難い御理解をやはり頂かれて、度々来るたんびに私が頂かなければならんという程に、やはり熱心に頂いても下さるし、理解力も持っておられるけれども、おー、本当の私の信心というものを、おー、まぁ、分かっておられんのです。それでもやはりおかげは頂いてもらわなならんから、私はできるだけお供えはさせる。ね。そこからでも、おかげの道が開けてこんならんと思うからです。ですから難しいでしょうが。
「信者に不同の扱いはすな」。先生があの人は応接間。この人はもう、んーんー、寝床にでもというような事が。大変この辺が難しい所。これはただ、あー、何て言うでしょうか。教導の妙とでも申しましょうかね。合楽の場合は。ね。もう確かに一人一人に違うんです。一見みずによると。それで、んなら、不同の扱いをしとるかというと、私の心の中には同じなんですよ。ね。それがどういう事が同じかと言うとね、おかげを受けてもらわねばならんという事において同じなんです。自分はいらんもんでもお供えしようと言うなら、ならお供えをす、ならお供えなさいと。そこからおかげを頂いてもらわなならんのですからね。
「信心の篤いのが真の信者じゃ」今申します事なんかは、まぁ、合楽に初めて御縁を頂かれてね。もうそれこそ、一目惚れされたんでしょうね。私に。ね。ですから、一目惚れしてもです、段々お付き合いをしておる間に、また嫌になるような事になるかも分からんのです。いよいよ、より篤うなるより、いー、惚れ込んで行く事になれば、それが理想であり、それが有難い事なんですけど。一目惚れというのは、またいつどうなるやら分からん。そういう例は沢山あります。もう、本当に惚れ込むという事。
私はね「信心の篤いのが真の信者じゃ」と仰るのはね。それこそ、どんな場合であっても、ね。いうならばね。えー、欠点が見え出しても、その欠点そのものがすばらしいものに見えてくる様にならなければ、ほんな惚れ方じゃないと思うです。ね。そういう信心を持って私は本当の信者だとこう思うし、また、真の信者じゃと思いますね。あぁ言われたからもう参らん。あげな事を見たけんでもうがっかりした。ね。
いつもまぁ例に申しますように、秋永先生が以前に言うておられた事の中にですね、例えばね、親先生の言われておる事がです、違っておってもよいっち。いやそれが地獄道によし繋がっておっても、さらさらいとわんという程までも一緒にいきたいという位な、私は、所まで本当に至った時が本当の信者じゃと思う、ね。おかげ頂くか頂かんか位でですね、ぐらぐらするという事はいよいよつまらんし、またそのお取次ぎを願っておるその先生に対してましてもです、今申します様に、ね。一目惚れ的なもので惚れ、そこで私の精進というのはです、ほんとに惚れ込んでもらわにゃならん。でなかったら本当のお取次ぎはできんのです。私が本当に一視同仁に扱えれる、私と皆さんという事にならなければならん。ね。
今日の御理解にピタッとくるかどうかは分かりませんけれども、今日頂きますこの所はね。大変意味が私もよく分かりません。けど、あの所のお大師様そこにある人の名前が入っておりましてね。「教祖は念を入れ拝せられるるに先へはよう行かず」とこう言われてありますから、まぁ、教祖様のごしん、あのまた、それ、ずーっと昔の事だろうとこう思う、ね。あのお大師様、何処の何々様といやぁ、参っておられた時代の事ですから。あそこのお大師様、あのー、四国参りなどをなさった事がありますがね、お若い時に。それにね、そのお大師様という、あそこに座られたらね、もう念を入れてしっかり拝まれたという意味だろうと思うんです。「先にはよう行かれず」とこう。ほりゃもう、いくつでん拝んだ方が勝ちのごとくに、どんどん拝んでさばくというんではなくてね、そこに座り込んだらもう、一生懸命に座り込んだ所で拝まれたという事。ね。今日の御理解の所からここの所をみなさん頂いて頂きたい。ね。
次にはね。んー、「人来たりおれば夜もひけたまわず御理解あり」とある。これはもう、おー、おそらく、うー、もう金光大神位受けられてからも知れません。まだ、ずっと低い、いー、金光大権現とかといったような御時代かも分かりません。けれども人が来ておったらですね、お参りに例えば来ておったら、もう夜も夜中も無かったと。もうひけたまわんというのです。もうお引きにならなかったちゅう。
昨日丁度私は、えー、久保山さんと高橋さんがあの、二日市の教会で、えー、経理の、おー、検査の様な事がありましたからそちらに行っておられて、丁度帰って来られたのが、あー、あの時ちょっと前だったでしょうか。それで、私があのー、テレビ室で、んー2人のお話を聞きよる所へ若先生が、昨日あの親教会で星野の教会の先生の結婚式がございましてね。祭員にたの、んー、願われておりましたから参っとりました。それで丁度帰って来ました。それで、えー、たまたま、あー、その信心話が、あの、この頃2日間博多教会で、えー、大淵信心という。んーまぁ、現代の金光教ではもう第一人者でありましょう。教学の意味においては。これはもう本当にもう自分の遺言だと言うてなさったそうですが、もうー、それはもうすばらしかったちゅうて。ね。2日間のその教学のお話が。そして結局、結論すると今私が言っておる事になってくるちゅう。もうだからですね、もうー本当に教、教学というものはね、もう本当に極めていったら人が助かるという事になってこなければやっぱり駄目なんですよ。その助かり様がです。ね。ただ助かるというだけではなくて、なら、そのおー、金光教の、おー、私があー、今これだと思うておる和賀心という事によっての、おー、いうなら助かり。いうならば、私が、私共では説きえない、いうなら和賀心学を2日間にわたって説かれたとこういうわけなんです。ね。
そして、結論は親先生が説きなさる所と同じ所だと。そういう話に身が入っておりまして、まぁ、私はだいたい、そのー若先生と話す機会が非常に少ないんです。また、向こうからなかなか話しかけてくれませんし、えー、私もわざわざせき止めて聞くという事も無い。そういう機会をいつも願っておるわけです。だから、親子がこう、信心話でもできる機会をいつも願っておる。もうそれが風呂の場合もありゃ、御飯を頂きながらでもある。もう本当に親子の交流する場というものをですね、そういう風にいつも私、思うておるんですが。
もうたまたま、あのその、そんな、丁度2人の方が、と、話をしておる所へ帰ってきて、その話を始めましたから、もうキリがないようにその時の話が出てくるんです。丁度末永さんが、先生、もう四時でございますと言う。四時の御祈念になってきたけれども、まぁ、ちょっと待っとってくれ。とうとう一時間遅れました。一時間、一生懸命信心の話をさせてもろうた。そういう時にですね、もう、私が御祈念事に出るよりも神様が喜んで下さると私は知ってるわけです。ね。
ですから、丁度一時間遅れて、やはり、あえー、四時の御祈念をさして頂いたんですけれどもね。私があのー、もう信心話という事になったら、それこそ「夜もひけたまわず」という所にね。私も。私もやっぱりそうです。もう信心話になったらキリがない。さぁ、お月次祭で遅いから、もう12時になりましたちゅうても、1時になっても、2時になってもやっぱり・・・。というようにですね、そのー、私はその、ね、やはり教祖様が信心好きでおありになったというな事が、そのお大師様の前で拝まれるというその事の中からでも感じられますし、また段々、あそこにも金光大神として人のお取次ぎをなさるようになられて、た頃だろうとまぁ、思うんですけれども。おー、人が参って来ておると、御信心話を始められたら、御理解を始められたらもう、それこそ時が経つのも、夜の更けるのもお忘れになっておられたという程しに、な所から、えー、感じられます。ね。
まぁ、そこでですね。今日、私はこの94節。「信者に不同の扱いをすな」という事について、実際形の上においてはです。応接間にどうぞという信者もあるかと思うと、私の寝床に、おるなら寝床にでもさぁどうぞ言うて、言う人がある。してみるとそこに不同の扱いをしよるようにあって不同の扱いではないという事を、まぁ、皆さんに聞いて頂いたんですけれども。実際はね、不同の扱いをされる位な篤信者にならにゃいかんと思うです。ね。そうでしょう。これだけはあなただけにしか言えませんというような信者にならにゃいけんでしょうもん。なら、これだけはあなたしか言えんという事を誰にでも言うっちゅうわけにはいかんもん。私でも。ね。
これも昨日、おー、この御本がね。えー、立派に、いー、このままの物が出来てきましたから、それを製本にやらなきゃならんのです。ほりゃ、立派な製本になってくるでしょう。それを昨日高橋さんと久保山さんと2人で、えー、その、製本屋に行って頂きました。ね。そしてまた、たまたまその話になりましてね。その今テレビ室で、あの、おー、話をしております時に・・・。けれどもこの本というのは、私がこうやって所々頂いて理解づけるとこれはもう一派な御理解ですからね。もう本部の方が誰が聞かれても素晴らしいんです。これはもういよいよ教祖様の御理解が、いよいよ、その、御理解をある場合は深くし、ある場合は広くし、ある場合は分からなかった事がこの事によって分かるという程しでしょうが。
ここもう、14,5日になりますかね。私がこれを引用するようになりまして。ですからあそこの所だけは、やはり抜粋しとかにゃいかんです。あれだけはだから教典にしたっちゃよかわけですから。あそこだけは。合楽で御理解をもって、えー、あの、聞かせて頂いておるのですから。決して、あの、誰が頂いてもいい事になっとるわけですよ、ね。はずです、また。けどもなるほど、これはずっとこう読ませて頂いておるとです。信心の浅い者やら、どうやらにはね、とても読ませもされないし、また信心ができておっても読ませられないなと思うような所がやはりたくさんあるです。
そこでですね、それが製本になって出来てくるのですから、そういう大変な難しい本ですからね、それを読ませてもらうための心得というものをね、私は書いておきたい。あのとびらの所へ。ね。これはこういう性質のー、まぁ、あー、いうならこれは本部でも極秘のものだとされておる位の大変な御本であるから、心して読まなければならんのだぞと。同時に生神金光大神というような高い御神格を受けられてからのお話ではない、いうなら、初心の、教祖様の初心の頃。まぁだ、あー、いうなら御神格の低い時代にお話になった事やら、またその時の御生活、態度と言ったような事が、それを見たり聞いたりした人達がこげなお話をしておるのであるから、ね。あのー、おー、そのつもりで頂かなければならん。生神金光大神という最高の御神徳、御神格を受けられてからのものではないのだから、そのつもりで頂かなきゃならんのだぞ、といったような事をね、語らなきゃならん。書いときたいと思うんですまた。
それはね、んー、んー、本当にそういう所を私どもには教えて頂きながらですね、なんて言うですかね、んー、本当に人間教祖というものを感じますね。えぇ。本当の、例えば、あー、お釈迦様とかキリスト様とかといったようにね、もう全然生まれが違うと。ね。例えばキリストなんかにいたっては、もうそれこそ処女受胎といったような事を信じなければ、キリスト教は分からないと言われる位ですからね。だからそういう例えば、雲の上の人達といったようなものとは違う。もう一農民、一お百姓と。まぁ、例えて言うとですね。教祖は非常にお若い時には、大変体がお弱かった。だから、信心もなさったわけでしょうがですね。非常に気も短かった。そんために、お子様を打たれるような事もあったというような事が出ておるんです。ですからもう、私共とひとっつも変わらない。一お百姓であるだけではなくてです。ね。言う事を聞かんと子供でも叩かれたといったような、じ、やっぱり御時代もおありになったんだというのですから、もう私共はもういよいよね、教祖に、の対する所の魅力というものは強うなってくるです。そういう生身を持っておられる教祖がです、やっぱり私共と同じような状態の方が、ただ、信心一筋に信心を進めておいでられていくうちに、我が心が神に向かわれて、生神金光大神、天地金乃神と同根とまでたたえられる、られる程しの所へ至られたのですからね。ですから、様々なやはりお話が出てあるのは当たり前。そしてむしろ私はそこにです、人間教祖、もう本当になんか、こう、おー、う、教祖の肌に触れるようなものをこん中から私は感じるんです。
けれどもです、これがひとつ間違うたら大変なんですからね。それこそ創価学会じゃなかばってんが、もうそれこそある事なか事、その、悪口を言うと。創価学会が、あの―、の人が金光教の信者に手紙をよこしておる、の中に、あんたどんが拝みよる金光大神ちゅうのはあれはもう、いざりじゃったとか、(笑)なんじゃったっちいったような事を手紙に書いちょりますからね。創価学会そういう事を、おーその、おー、ちゃんとその、言わにゃならんってふうに教えるらしいですね。ね。けど私共はですね、そういう例えば人間臭いっぱいの教祖様がですね、が、信心のお進みになられるにしたがって、生神金光大神というような御神格までも受けられるようになられたという所にです、大変な魅力を私は感じますね。してみると私共のようなものでも、信心一つでは生神金光大神の境地にまでも進まれるという所に、このお道の信心の素晴らしさがあるとですよ。ね。でなかったなら、とてもお釈迦様の真似やらキリストやらの真似やらっちゃもう、全然根本的に出来ないでしょうが。他の宗教、宗教宗派から引用すると。ね。「此の方ばかりが生神じゃあない。皆もこのようなおかげが受けられる」と、仰っておられるおかげが受けられる所に、お道の信心の素晴らしさがあるとですよ。ね。
まぁそういう、まぁちょっと余談になりましたがです。その、そんな事を話しながら、丁度四時の御祈念を一時間遅れて五時の御祈念をさせて頂いた時です、座ったらすぐ頂きます事がね。その、これに対する扉の事を頂くんですよ。そして頂く事がね、うーん、えっと忘れた(笑)ほっ、あんた書いっとったですか?うーん、うん。「教祖に惚れ抜いた者以外に、見るべからず。見せるべからず」と頂きました。そうだったですね。ね。金光大神に惚れ抜いた人にしか、あの、見せら、見せてはならない。また、見てはならない。私はこれ頂いてからね、もう本当にいちごんにして決まりました。この扉のそのこと。だから絶対、これ、皆さんに、も、見せられんです。私はまだ皆さんをそれだけ信じとらんもん。うん。本当です。ね。(笑)ね。ですから、本当にですね、教祖金光大神にもう惚れぬいてるという人にしか、見せられん。ね。それ、よ、く、俗にも申しましょうが、ね。それこそ、「あばたもえくぼに見えるようにならなければ」。私と皆さんの場合でもそうですよ。はぁー、椛目の先生なんとかかんとか言うばってん、あげな所があるじゃないか。と例えば人が言うてもです。私だん、そこに惚れ込んどるとじゃけ。と言えれる位に私とあなた方がならなきゃ駄目なんです。はぁ、そげなこっちのっち。大坪さんにそげんとこもあんのと。例えばですよ、言うてからがっかりするどころじゃできんっち。あたしだんそん、そこんところに惚れ込んどるとじゃけと。ね。惚れ込むちゅう事はもう本当に、あばたもえくぼに見えてくる事ならなきゃならん。金光教の悪口を言われても、あんただん、それに惚れ込んどるとじゃから。ね。だから、そこまでにですね。惚れ込んでおる者にしか、見せるべからず、また見るべからずという事。ね。もしこれを例えば、ならだ、これを私が、直しとっても、これをこう引っ張り出して見ろうとする人がです、扉を開けた時に、ね。惚れ込んでおらなきゃ見るべからずと書いてあったら、やっぱ、そこで躊躇するだろう。ね。自分こそ教祖金光大神に惚れ抜いとるちゅうなら、それこそ私の部屋に入ってきて、なおしてある所へ来て、ご覧になってもそりゃいいです。皆さんにそれだけの自信が出来たら。ね。教祖金光大神に自分は惚れ込んでるんだと。ね。ですから今日私はそこん所をですね、不同の扱いを受けられる位な信心というのは、そこまでの所を今日は皆さんに聞いて頂いたんです。
昨日、そうやって丁度お話を、おー、皆さんが帰って来る時に私はテレビ室におったんです。テレビ見よりましたら、そうもちろんテレビ消しましたけども、丁度その時に、あのアイ・ジョージがね、アイ・ジョージに、いー、アナウンサーが何か、あー、こう尋ねておりましたよ。そしたらアイ・ジョージがこういう事を言うんですよ。私はね、自分の歌を世界中の人達に聞いてもらいたいという事が私の願いだ、ちゅう。明けても暮れてもこの事ばっかり思うとるって言うんですよ。ねぇ、私の、まるっきり私ごたる事を言いよんのと言うてから、まぁそのまま切りました。切りましたけれどもですね。素晴らしいじゃないですか。私、本当にそう思うた。なら、いくら美空ひばりが日本一だっちゃですね、美空ひばりはですね、世界中の人に聞いてもらいたいっていったような事は思うてはおらんが、またあの歌ではです、世界中に、の人に聞いてもらう歌ではないです。ところがね、なるほどアイ・ジョージが言うように、あの人の歌を聞いとったらですね、世界万国に通ずるものを持ってるんです。あの人の歌は。ね。だからそれを聞いてもらうのが自分の夢だと言っています。素晴らしいですね。
私が今ここで今年言うておるです、和賀心時代とか和賀心学を修めてとか、ね。あらゆる宗教宗派がです、この和賀心というものを根底にしてね、愛であり、慈悲であるという事になってこなければ、地球上に住む人間の全てにですね、行き渡らないんだと。そういう普遍性をもったものが、あー、和賀心なのだと。これならどこの信心がむしろない者の方が早や分かりする位だと、今私が言うとる事は。これは本当ですよ。皆さんよりもですね、かえって信心のない人達の、ちょっと関心を持った人なら、私の言う事なら本当に分かるです。現在。これ私は本当にそげん思いますよ。今の私が言うておる事は。むしろ信心のない者の方がですね、よう分かるですよ。それ私最近本当に実感します。ね。私の夢もやっぱりそう、世界中の人にね、私が言うておる事を聞いてもらいたい、合点してもらいたいと。ね。そしてそのアイ・ジョージのその歌じゃないですけれども、確かに世界中に聞いてもらえれる内容を持っておるという事です。私が言うておる事も世界中の人に聞いてもらい、分かってもら、もらおうと思えばもらえれる内容を持っておるという事なんです。
だから、そういう程しの事をです、今ここでは朝晩頂いておられるわけですからですね、そこからだけでも、いうならばね、金光大神に惚れ込むという事、申しましょうか、まぁ、合楽の先生に惚れ込むという事です。ね。まぁ、惚れてもらえれる内容を持っておるという事。ね。というてなら惚れて下さい、惚れて下さいって言ったって、その、出来るこっちゃないけれどもね、そこまで私共の心と、心がです、ね。通う所までおかげを頂く時、初めてですね、私は特別な扱いとでも申しましょうか、ね。ちょっとこれば一遍よんでごらんなさいと、私の方からよんでもらえるようなです、ね、ほれ、惚れ込み合いというかね、そういう私は願いを持っております。ね。その時こそ、私が不同の扱いをした時なのだけれども、それは私はね、神様に喜んで頂く不同の扱いだと私は信じております。ですから、この94節は非常に難しい内容を持っておる事が分かりますね、きょ、今日の御理解を頂きますと。ね。ちょっと間違うと本当に不同の扱いのようになったり、ねぇ。というて誰でも合点するように、一応に、この人にも特級酒を飲ますんなら、この人にも特級酒を飲まそう。そうすればね、なるほど良いかも知れん。それが不同の扱いじゃないかも知れん。けれども私に言わせるとそれは本当じゃあない。特級酒を飲めれる人に、飲めれる資格のある人に特級酒を飲ませ、ね。資格のない人には二級酒を飲ませ。それが私は本当は本当な事だと私は確信しております。ね。ただここのお神酒さんだけですよね、これだけはもう超特級の菊正ばっかりですから、これはもう一視同仁(笑)、皆一応に頂いてる。ね。月次祭の時に頂いておられるのはあれはもう同じ。ね。けどそれ以外の時には違う。焼酎の人、をあたくしが(笑)久富先生なんか焼酎どんあると、これ久富先生あなたんと(笑)。高橋さん、久保山さん、あなた達はビールを飲みなさい。いかにも不同の扱いをしておるごたるけども実際の、その、中というものは同じなんです。
だから、本当に頂き違いますと大変間違うてまいります。また、その、そういう色眼鏡で見ますとですね、本当に椛目のせ、あの合楽の先生っていうのは本当に不同の扱いをするという風に見られるかも分かりませんけれども、本当の例えばあたくしの、おー、まぁ、布教の根本精神といったようなものを分かって下さるとですね、そこん辺が分かって頂けるように思います。94節はそういう、まぁ、複雑なね、内容をもったものでありますが、銘々においても同じ事ですから、ね、そういう生き方あり方が信心生活の上にもやっぱり現わされていかなければならんと思うのですよ。ね。本当に例えばね、あのー、意味で、あの、本当の意味で不同の扱いをされる位嫌な事はありませんもんね。ね、だからやっぱり本当な意味でですね、不同の扱いを、また皆さんもしてはなりません。けれども、の、その、私のいわゆる布教、いー、精神とでも申しましょうかね、の、その態度という事は今申し上げたようなものなんです。「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするような事ではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」と。いう事をまぁ、非常にむつかしゅう説きましたですね。どうぞ皆さんの信心でよう頂いて下さい。